自宅にいた私の携帯にテンのおばからの電話が入った。
夜9時過ぎ。
「今日は手術が出来なかったんだよ。点滴の注射が入らなくて」
彼女の腕、足、頭いたるところに刺されつづけた針は、殆どの毛細血管をつぶしてしまった。今では注射針の交換は拷問になる。少ないときで、3-4回、多いときで20回ものトライの上、やっと残り少ない‘使える’血管が見つかる。針を刺されるたびに泣き喚くテン。その小さな身体を押さえつける私たち。特に頭に指されるときは正視にたえない。それでもうまくいけばまだいいのだが…。
手術室から‘無傷’で戻ってきたテンは、朝からの絶食の渇きを一気にいやすかのように、グビグビとミルクを飲んでいるという。
この子はどれほどの痛みを経れば、『生きる』ことが許されるのだろう。次の手術の可能性を秘めながら過ごすつかの間のまどろみも、点滴、投薬、検温で破られる。
だからこそ普通の子どもの何百倍もの愛を受ける権利がある。それは昨日出会った、知的障害者の子どもたちも同じなのだ。
日々の暮らしの中で、自分自身が投げかける命題、受身の命題。それらに思考をめぐらせるとき、テンの存在が迷路にさまよう私に、出口への光を投げかけてくれる。