スマトラ島沖大津波、ボランティア報告

『バンコックから北へ150kmほどのロップブリ県に、エイズホスピス‘プラバートナンプー寺’がある。そこで長年、医師としてボランティアをしていたベルギー人イブ ウエリーが、スマトラ島沖大津波の犠牲者の検死作業にボランティアとして携わった。ホスピスのボランティア仲間たち数人も彼に同行した。これはその報告書である』。


スマトラ沖大津波、ボランティアからの報告
 遺体安置所は、まるで冬の朝もやのように、ドライアイスからの白くて乾いた煙が一日中漂う空間である。最初はその塊を遺体の上に直接のせていたが、そのやり方では遺体を傷つけ、身元判明の手がかりになる刺青まで消してしまう(写真参照)と分かったとき、遺体の間に置く方法に変更された。そのあと当局者は遺体安置所を一つのゾーンがおよそ50体からなるスペースに分け、ゾーンの間に高さ60cmの壁を設けることにした(写真参照)。その仕切りの設置により2つの問題が改善できたが、あらたな問題も起こった。

 第1の改良点は、スーパーマーケットでよく見られる開口部のある冷凍食品保存庫と同じように、このゾーンに冷気を密閉することにより少しは遺体の腐敗の速度を遅らせることが出来ること。第2の点は、放し飼いの鶏が遺体の口や目、それに身体の傷から出てくる蛆虫を突ついて、餌食にするのを防ぐことが出来ることだ。一方この壁の短所はドライアイスから出る煙を封じ込め、作業に支障をきたすことである。煙はまた、思いがけない副産物ももたらした。ボランティアの数もまばらになる時間帯、特に夜間には、ダンテの「神曲」が描くところの地獄界の美とはかくあろうかと思えるような光景が出現した(写真参照)。

 我々はトラックで運ばれてくる遺体(写真参照)から、身元確認の手がかりとなるどのように些細な特徴でも見つけ出す作業を割り当てられたが、高気温のために溶け出したドライアイスが放つ大量の煙が作業の支障となり意気を削がれがちであった(写真参照)。苦肉の策として考えついたのは、チームの一人がドライアイスの煙を払う係に専念することだった。その係がダンボール箱の切れ端を使って遺体周辺の煙を払うあいだに、一人が参考写真を撮る。もう一人は遺体の着衣を記録し、ラベルを切り取り、ポケットの内部をチェックする。3人目は遺体のあらゆる特徴を調べる係だ。つまり、刺青、耳のピアスの穴、外科手術の跡、マニキュアの有無や爪の長さを観察し、記録する。さらに遺体の口の中に指を入れ、あごの状態や、抜歯の跡、入れ歯の有無を調べる係もいた。この担当者だけが悲惨な遺体をあまり直視する必要がないという点で、少しは得な役回りであったかもしれない。チームメンバーの内の一人は遺体には触れずに、他のメンバーが口述することを所定の用紙に記録する係りを担当した。さらに別のメンバーは遺体を洗う水を運び込んだり、小さな袋に髪の毛や切り取った洋服のラベル、ブレスレットやその他の装飾品などを詰めたりする役目を受け持った。

 幼い子供たちの身元確認用のサンプルには、穿いていたズボンなどを加えることした。もし子供の母親が生きていれば、間違いなく瞬時でそれを見分けることが出来ると考えたからだ。そうすることで遺体と直接対面したり、写真確認したりするよりは効率的で、なおかつ苦痛の少ない身元確認が出来ると考えたからだ。

 ときには犠牲者の性別さえ確定出来ないほど損傷の激しい遺体もあった。そのため、とにかく早く作業を進める必要があった。遺体は次々と運び込まれ、たとえ一時間の差であれ、どんどん鑑定が難しくなっていったからだ。あとから到着した遺体ほど着衣の黒ずみが増していき、毛髪の量が減り、腐敗の度も酷くなっていった。推定年齢の割り出しは殆ど賭けに等しかった。中でもとりわけ骨の折れる仕事は、人種を特定することであった。アジア人なのか、ヨーロッパ人なのか。もし、ブロンドの髪の毛がいくらかでも残っていればそれほど困難ではない。頭髪と陰毛を較べるだけで人種の特定が出来るからだ。しかしその他の遺体の場合はどう特定すればよいのか?ヨーロッパ人に較べるとアジア人の頬骨はいくぶん高い目である。陰毛は少なめで長く、それほど縮れていない。骨格はどちらかというと華奢で、肥満体型はまれである。着衣や刺青によっては宗教色を出していたり、文化の違いを知る手がかりになる物もあった。しかし率直に言って、間違いが起こるのは避けようがなかった。

 この‘人種’という点が到着したばかりの、ヨーロッパ人からなる遺体検死専門チームにとりただ一つの関心事のように見受けられた。彼らの中には尊大さを露にする者もいた。一例を挙げると、アジア人の遺体に接するとき、明らかに軽蔑的態度をとる者もいたことは、私自身がヨーロッパ人であることを恥じたくなるような経験であった。彼ら‘専門家’たちの評判をさらに悪くしたことは、運ばれてきた遺体を包む袋を開け、検死するという一番骨の折れる最初の作業にめったに手を貸さなかったことだ。我々がすでに検査を終えた遺体のうち、白人の可能性があると推定した遺体だけに興味を示し、その遺体を自分たちが勝手に設けた‘西洋人犠牲者専用スペース’に運び込んで分析後、確定したものだけを保冷コンテナーに安置した。混乱を極めた現場の状況では、我々の検死結果も信憑性に欠けるのは免れなかったにも関わらず、公表された遺体の写真や特徴を見て、身内の一人かも知れないと、コンテナー内の遺体の確認を希望するタイ人の親族がいても、このファラング(タイ語で西洋人という意味)たちは親族が保冷庫に近づくことさえ許さなかった。

 一連の作業のうち、とりわけ耐えがたかったのは、トラックで運び込まれたプラスチックに包まれた遺体を取り出す最初の作業だった。異臭の酷さは筆舌に尽くしがたく、臭いを分散させるために作業を一時中断し、開いた包みを数秒間放置することもしばしばであった。異臭と同じくらい胸を悪くさせるものに、遺体に取り付く蛆虫がある。しかしこの忌まわしい生き物は、空気や光に触れると遺体の内部に戻る習性があるので、袋を開けてから数分後には心理的にいくらか楽になった。経験を重ねるごとに少しずつ知恵がつき、検査をする前にまず、10体ずつ袋を開けておく方法をとるようした。

 我々が割り当てられた任務は、この大惨事がもたらした様々な作業の中で、特に不快なものではなかったかもしれない。もっと大変なのは残骸やぬかるみ、あるいは淀んだ水の中から遺体を収容することであろう。しかしこの作業と我々のそれを較べたときに、前者のただ一つの利点と言えば言えるかもしれないのは、一日に扱う遺体の数が我々より少ないことだ。そうは言っても実際には、我々が絶対的に不利な作業に就いているとは言い切れない要因もある。並列に置かれた何百体もの遺体と対峙するような状況に身を置くと、脳は特別の指令をだし、遺体の人間性と心理的に距離を取ろうとする作用があるからだ。その証拠に遺体の検死作業をするボランティアの中から、誰一人として嫌悪感から仕事場を離れたり、吐き気を催したりするような者は出なかった。それどころか、ボランティアたちがもっと過激な任務を選ぶ傾向があるのを見た。その任務とはDNAサンプルの採取だ。検死とはまた違った遺体との接し方をするその作業、大腿骨の四頭筋に小型ナイフをふるい、肉片を採取してサンプルの袋に入れれば、もう次の遺体へ移る。遺体を取り出し異臭にさらされることもない。のちに腐敗がすすんで筋肉が使えなくなってからは剪定はさみを使ってわき腹の肋骨を切り取った。そのやり方のほうが簡単であった。

 一人の赤ん坊の検死が終わった。その後のDNAサンプルの採取と歯科医チームによる補完的な歯型検査が終わると、新しいプラスチックで包み、一列100体ほどの遺体の列に加えられた(写真参照)。それら遺体は、ほどなく火葬に附される。これがアジア人の遺体の通常の取り扱い方法だ。我々はこの赤ん坊を一方的にアジア人と見做し処理を進めたが、それは西洋人の専門家の到着が遅すぎたのと、彼らが現場で手を貸さなかったのが原因でもある。

 一人のボランティアが並べられた遺体の列の間にドライアイスを置こうとしていた時、誤ってその赤ん坊の身体の上に塊を落としてしまった。その時小さな包みの中から数秒間うめき声にも似た音が聞こえた。恐怖!パニック!皆が一瞬凍りついた。ドライアイスを落したタイ人ボランティアは何度も「ごめんなさい」といいながらプラスチックの袋の中の赤ん坊にワイ(両手を前で合わせるポーズ。挨拶や、許しを乞う時のジェスチャー)をし、バッグを開けようとしたので、「その現象は体内にガスがたまっていたのがドライアイスの衝撃で体外に出る際、声帯を刺激して起こる珍しくもないことなので、袋を開けてみる必要はない」と私が説明し、やっと騒ぎは収まった。この小さな事件が起こったのはもう夜も更けた時間帯であったが、前夜の騒ぎにも関わらず、翌日には全員が再び作業に集結し、くだんの一件を冗談まじりに話すまでになっていた。

 我々の脳裏に深く刻みこまれ、一生記憶に残るであろう逸話は他にもある。しかしそれは悲劇的なものばかりとは限らない。任務の特殊性から特別な緊張を強いられた我々の神経は、説明のつかない精神作用を起こすこともあった。

 非常に体格の良い遺体を検死していたときにそれは起こった。我々がヨーロッパ人と見做したその遺体は、いわゆる脳みそは小さいが、力は強いというあの手のタイプの男のように見受けられた。裸の上半身をひけらかせて街をねり歩き、若くて可愛い女の子を引っかける、歓楽街によくいるそんな男の一人のように映った。彼の着衣を脱がせる前に、汚れを払い落としていたその時、着ていたT-シャツのカラフルな胸のロゴが目に飛び込んだ。それを見た、居あわせた者全員が突然笑いにとらわれた。そのような場所で、全く気が狂ったとしか思えないような不謹慎な行為。しかしその笑いをどうしても止められなかった。そのT-シャツには、よくあるブロークンイングリッシュで、大きく‘涅槃はここにあり’、その下に小さく、‘13日の金曜日’と書かれていた。

 我々が任務を通して抱えるリスクはなにか?医者の立場として「バクテリアは大して危険ではない」と言える。遺体の腐敗の大半は、空気感染をしない菌が原因で、正常な血液循環をしている身体には感染しないからだ。肺炎菌や結核菌が蔓延する病棟に身を置く方が、危険にさらされる度合いが高い。

 任務の本当のリスクは心理面にある。人間の脳の働き、すなわち途方もない数の死に直面した時には、それがスイッチ(切り替わる)する能力についてはすでに言及した。その作用は悪い方向に向きがちである。ボランティアが一番恐れなければならないのは、悲劇の証人になる苦痛ではなく、死者に対しなんら敬意を払わなくなるような狂気だ。

 我々のチームメンバーの一人の若い女性が、私の肘を突付いて、「あんなタイプの男が私の人生に関わりを持つのは絶対いやだわ」と言ったとき、現場ですでにその現象が起こっているのに気がついた。彼女は作業中の白人DNA鑑定専門医を指して言ったのだが、その医者は丁度その時、まるで焼きすぎたチキンの骨を抜くかのように幼い少年の大腿骨を引き抜いている最中だった。次に、抜き終わったそれを手に取ると、なたを振り下ろし骨の砕片を四方に撒き散らしながら、使用可能なサンプルを抽出する作業に取り掛かった。彼のやり方は、見方によってはヒステリー患者か肉屋、あるいは戦争によって誘発される狂気に満ちた行為そのもののように映った。

 もう一つのリスクは、任務を離れてからも場合によっては長い間苦しめられる悪夢かもしれない。この点に関しては、我々のチームメンバーは免疫があると言ってもいいかもしれない。我々はこの国のロップブリ県にあるエイズホスピスでボランティアとして数年間一緒に働いた仲間で、そこで1日あたり、一人か二人の患者の最期を看取った。丁度数週間前にホスピス幹部との意見の行き違いが原因で、全員がそこを去ったばかりであった。このホスピスでの経験を通して私が確信を持ったのは、生前の美醜はおろか、すべてが未知の人たちの死の証人になるより、名前やその声の響き、あるいは個々の苦しみを知っている人たちの最期を看取る方がよほどつらいということだ。

 カオラックの‘死の基地’の雰囲気は和やかに終始したといえるだろう。ボランティアが沈み込んだりすることもなく、笑みが絶えなかった。ここでタイ人ボランティアに敬意を表したい。彼らは何日間も作業に携わったが、遺体に触れるときは終始、まずワイをし「失礼します」と言うのを欠かさなかった。これは犠牲になられた方々への深い敬意と哀悼の意の表れだ。また彼らタイ人誰一人として、人種による遺体への差別をしなかった。

 現場で陣頭指揮に立ったのは、タイでは知らぬ人のないポンティップ博士である。女史は過去にも、世間を騒がせた数々の事件の審理で活躍した人物だが、外見的には独特のスタイルのこの博士、任務を完璧に把握しているという点では奇跡とも思える働きをした。現場のいたるところに現れ、常に笑みを浮かべながら矢のような質問に答え、タイ語は話せないが何かしたいと駆けつけた外国人たちを指導した。そして一旦指示を出せばそれに従うように仕向けた。検死作業に伴う山のような案件は非常に困難で緊急を要し、その上予測不可能であった。限られたスペースの割り振り、遺体の配置、惨事の記憶も生々しいタイ人からなるスタッフの体系的な組織、ボランティアの善意に穏やかに全幅の信頼を置くやり方、我々ボランティアに次々と送られてくる何トンもの寄付の処理等々、到着したばかりの西洋人が理解できるわけもないそれら案件を、博士は特筆に価する働きで処理し、その機能を維持するのに成功していた。このような大惨事をタイは長い歴史上はじめて経験したこともあり、設備や情報が極めて不足している状況にも関わらず、ヨーロッパ人には決して達成出来ないような素晴らしい仕事振りを発揮した。これは現場の証人として自信を持って言える。

 我々ロップブリチームは地震発生後2日目に現場に駆けつけた。ちなみにロップブリから災害地までは1,000kmある。我々全員が特にどこかの団体に所属しているわけではないが、プーケットまでの飛行機代は無料の上、切符を30分以内に手に入れることが出来た。現場は極度の混乱で何ら対策が打たれていないと思っていた。これは他の西洋人も同じ思いであったろう。到着するとまず空港で、医者と通訳として深夜遅くまで手伝った。そこでは次々と到着する無数の負傷者がバンコックへ搬送されるのを手助けした。殆どすべての負傷者にすでに基本的な救急処置がほどこされており、患者達はレントゲン写真や診断書を携えていた。傷の感染症がすでに始まっており、さらに強力な抗生物質を投与する必要があった。翌日(地震発生3日後)プーケットとカオラックの病院に出向くと、すでに全てがコントロール下にあった。そこにはタイ全土から駆けつけた優秀な医者達が配備され、我々の申し出に対し、恐らく他の場所の方が手伝えることがあるのでは、と丁重に説明した。再び空港に取って返すと、そこもすでに空軍の指揮下にあり、我々が手をだす幕ではないと分かった。

 新年を自宅で過ごすための無料の飛行機の切符まで手に入り、この周到さ加減にはチームのメンバー全員が感服させられた。今後も何か出来ることがあればと、全員の名前を置いてきたところ、新年に入ってから、カオラックに戻るようにと要請があった。遺体の検死作業のための召集だが、そのための手段、つまり無料の航空券、宿泊施設、食事、保護服、作業後の着替え(作業が終わると、臭いを取るためすぐ着替える)等、今回もすべてが事前にアレンジされており、希望者にはマッサージの用意までされていた。なかにはこの混乱のなかでの組織力の欠如をあげつらう白人もいたが、彼らは、今回のような災害につきものの混乱状態を統制不足としか捉えられないのだろう。自国のやりかたに固執する人々に、タイのような国で行われている意思決定の方法や、その背景、あるいはシステムの全体像などの点で簡単に誤解が生じるのは避けがたいことかもしれない。

 c0071527_14594674.jpg最後に、タイ人の皆様が私の同胞、ヨーロッパ人犠牲者に対し丁寧かつ専門的な対応をしていただいたことを、お礼申し上げます。この未曾有の悲劇にも関わらずあなたたちは人間性を保ち続けてくれました。非常に人間的でした。そのことにあらためて敬意を表したいと思います。
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by karihaha | 2005-03-04 20:36 | スマトラ島沖大津波 | Comments(1)
Commented by バーバリーブラックレーベルメガ at 2013-11-30 11:52 x
スマトラ島沖大津波、ボランティア報告 : ボランティアINチェンマイ
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