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小児病棟から(11) ビッグCとレオ

 タイ人は戸籍上の名前があるのは勿論だが、そのほかに「チューレン(あだ名)」を持っている。このあだ名は例えば学童期や社会人になってから友人たちから頂戴するものではなく、生まれ落ちると同時に親がつけるのが普通だ。大半はゴップ(蛙さん)やマー(馬さん)のように単音節のものが多い。私の友人は「スモウ」というあだ名で、その由来は彼の父親が相撲好きだったからとのことだ。ここでの普段の生活はあだ名で充分ことたりる。

 Vホームの子供に「ビッグC」と「レオ」というあだ名の乳児がいる。「ビッグC」はこちらの大型量販店の一つ、「レオ」はビールの名前だ。察しの良い方はもうお分かりかと思うが、二人とも捨て子で1人はそのスーパーで保護され、もう1人はレオビールの空箱に入れられ、捨てられていたらしい。身も蓋もない命名だが、何も知らない本人たちはごくごく普通の愛らしい男児である。

 児童養護施設への入所理由により周りの大人の心理に影響を与え、それが彼らへの気持ちや接し方に微妙な違いをもたらす。その尺度は一般社会のように金銭や名誉、あるいは地位ではなく、「親の子に対する意識」が唯一の基準である。

 経済的困窮や病気あるいは刑務所服役中など、諸々の事情があり一時的に預けられている子どもにはまだ救いがある。親の影を感じることが出来るという点で、気持ちに少しは余裕を持って接することが出来る。親が亡くなった子どもの場合は、「きっと心を残して逝かれただろう。でも致し方ない」と思うことでかろうじて心の平静を保てる。一番やるせないのは被虐待児と捨て子だ。そこには一片の親の愛も感じられない。どちらも子どもの人権や尊厳を完全に無視した行為だからだ。

 子どもは大人の精神状態の試金石だと思う。あやして笑ってくれれば、こちらも幸せになり、泣き止まなければ感情的になる。思いがけないほどの感情の起伏に襲われ、己の底の浅さを痛感させられることがしばしばである。実の親であればもっと重圧がかかっているのは理解できる。しかし‘しつけ’と‘虐待’はその性質を全く異にする。捨て子もいくら事情があろうと許されるものではない。責任放棄という罪以外に、子どものアイデンティティを奪い去ることによって将来の可能性の芽を摘むことにもなる。

 子どもが高熱を出したり、咳きが止まらず苛立って泣く時など、「あんた達、いまお酒を飲んで騒いでいたり、美味しいものを食べていたりしたら許さないから」、と見えない親に声にならない罵りの言葉をかけることもある。

 そんな酷い親ならいないほうがマシ、と思おうとしても、それは本人以外の人間の気休めであろう。本来であれば世界で一番拠り所となるはずの人間から人生のスタートに押し付けられた情け容赦ない仕打ち。その行為は親だからこそ許されるものではない。
by karihaha | 2005-03-04 21:00 | 小児病棟から | Comments(0)
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