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カテゴリ:スマトラ島沖大津波( 5 )

Dr.ポンティップ 後日談

 私の友人が「スマトラ島沖大津波ボランティア報告」を書き、それが縁でポンティップ博士が書き、「Nation Weekend誌」に3度にわたり掲載された手記を私が翻訳したものをご紹介させていただいたことをご記憶の方も多いと思います。http://chiangmai.ameblo.jp。

 それに関連して、先日「マティチョン」紙に警察庁長官が、ポンティップ博士の検死情報を「ゼロ、すなわち価値なし」と断じた記事が掲載されました。その内容を要約したものを下記します。

 『2月8日、国家警察ならびに国際警察庁長官は、司法省科学局所属のポンティップ博士が率いたチームがパンガー県カオラックのヤーンヤーウ寺遺体安置所で行った検死情報はすべて信頼に足るものではない。検死は災害直後から間違った方法で行われ、国際基準のTTVIを順守していない。そのため、国際社会の不信感を招いている。

 細かい点では、例えば犠牲者の身長の記録がなかったり、親族の供述する特徴との相違が見られたりするため、遺体の引き渡しに遅延が生じている。いずれにしろ、ボンティップ博士チームの検死情報は正確さを欠き、TTVIとDVIの見地からいえば、その情報量は8-20%に過ぎない。その情報価値はゼロですべて最初からやり直さなければならない事態になっている。

 その反面、警察が検死を行った他の遺体安置所、つまりクラビ、プーケット、ラノン、トラン、サトゥンの各県の犠牲者の記録は全て完璧である。

 また、警察とポンティップ博士の‘確執’についても触れ、話し合いの場を持とうと努力したが、実現しなかったと述べている』


 警察と、ポンティップ博士の言い分の食い違いは食い違いとして、犠牲者のご家族の方たちの信頼を失わせ、ボランティアの神経を逆なでするようなこの種の発言が警察庁長官から公式に発表されるのは、驚き以外の何物でもありません。

 余談になりますが、私の友人に先日メールが一通届きました。差出人は,、アメリカの研究所に今回の犠牲者のDNA鑑定を依頼している、ある団体に所属する人物です。その人物によると、ボンティップ博士の指導のもと行われた検死の情報は、完全に国際レベルに達しているそうです。
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by karihaha | 2005-03-04 21:02 | スマトラ島沖大津波 | Comments(0)

Dr.ポンティップエッセー No.3

バッド ニュース(悪い知らせ)No.3

                     責任者


 今回の津波によってひき起こされた検死の任務は非常に深刻かつ重大なものであった。このような大惨事がどの国で起ころうがその対応は難しいであろうが、特にタイに関しては今日まで大量の犠牲者が出るような自然災害にあまり遭ったことがなく、その対処方法の知識に欠けていたのは否めないかも知れない。

 私は法務医として個人の死者の検死を専門としているので、その分野の知識は持ち合わせているが、今回のように多くの犠牲者が出たケースを扱ったのは、タイ南部のタクバイ郡で起こったイスラム教徒鎮圧時の時を除いてはなかった。津波発生当日から、「しかるべき人員配備計画をするために、深刻な状況を見極める必要がある」と進言するため内務大臣と話し合う努力をしてきたが、津波に関わる様々な重大事態に忙殺されている内務大臣をこの件で直接動かすのは難しいと同時に、コミュニケーション手段の不備もあり問題を総括的に把握するのは不可能であった。

 任務の第1日目から、誰が検死及び、身元確認作業班の責任者になるのか早く知りたかった。現場で人的配備や行動規定を決めようにも、人手と器材が不足していたにも関わらず、誰がその手配をするかについて何の答えも返ってこなかったからだ。

 私がこの任務に就いたのは内務大臣と法務省次官の要請があったからだが、あの午後の時点で、すでに500人以上の方が犠牲になっていると聞いた。そのような大惨事であれば本来、3部門の責任者が必要であろう。まず、第一に医者と法務医のグループ。第二には警察関係者。そして最後に全ての機能を管理する責任者、つまり総括責任者だ。

 信じられないことに、津波発生の日からこの記事を書いている今日まで、まだ状況を把握している総括責任者がいない。そのためポン医師と私があちこちを駆け回って、総括的な任務もこなしている。パンガー県の代理人を検死現場に派遣するように要請していたところ、昔マヒドン大学で一緒に学んだ同級生のポン医師が偶然、自ら志願して来てくれたことは、全くの僥倖であったと言える。責任者不在で総括的任務が行われていなかったこともあり、ポン医師が最高責任者のような立場になった。そのお陰で問題を認識し、解決することが出来るようになり、事態が少しずつ進展するようになった。

 今も遺体の検死や身元確認の総括責任者を見つけるのは難航を極めている。聞くところによると、地元の人手があまり多くない上に、行方不明になっている人々もいるからだとのことだ。私はと言えば、現場の任務に駆けずり回っているのでまだ作業の問題点を総括する時間がない。警察庁関係者の高官で現場に来たのは、憶えている限りでは、南タイ第8警察区からの人物と、今回のニュースを伝えに来た人物だけである。それまで、誰一人として国際基準のDVI方式で検死をしなければならないとは言わなかった。

 津波発生後3週間も経ったとき突然、国家警察庁が介入し、遺体をもう一度検死するというニュースを伝えた。その理由は以前に検死した遺体やヤーウヤーン寺に安置されてある遺体の情報は国際基準に達していないからということだ。その上、その件に関して、私の名前だけが取りざたされ、パンガー県で一緒に働いている他の医師たちについては触れられていない。別のルートからも、今までの検査は国際基準に達していないので、再検査の必要があると聞いた。

 私は、外国の基準と同じでない検死方法に固執したり、反論したりしているのではない。残念なことにタイの法務医は僅かしかいない。器材も不備である。私自身も、すべて私物の器材を使って仕事をしている。カメラもパソコンもだ。このような乏しい器材を使っての方法は確かに充分ではないかもしれないが、ことが起こった後で初めて姿を現し、基準にあった検死情報が必要、とだけ言うはタイ語の正しい使い方とは言えない。

 この事態は責任者の不在が原因だ。内務大臣、知事そして各大臣は事態の総括をしたり、人員配備をしたりする責任者の不在が問題を解決出来ない原因であるというのを承知していた。検死情報を収集するチームが欠如していた。情報の大半を収集していたのはボランティアで、その中でも注目に値するのは情報通信技術省とエネルギー省が検死のシステムを作るのを手伝うためにPTT(タイ石油公社)のチームを送ってきたことだ。このことも私たちの誰一人として国際警察の定める基準に従って検死しなければならない、ということを知らなかったことを示している。

 ニュースを見ていた方はどなたも、私や今回の作業に携わった全員が疲労困憊していたことをご覧になったであろう。私は遺体の安置場所を確保し、軍医や部下は遺体を移動し、組織的に埋葬した。親族が身元確認後の遺体の引取りを希望すれば、再びそれを掘り出す。その作業期間中を通じて統括責任者はいなかった。

 地元の多くの警察官の方々も津波の犠牲になられた。残った警察官は少ない人員にも関わらずよく働いた。私も出来るだけ仕事を助けるようにした。しかし今になって国家警察が姿を現し、再検死というニュースを伝えたが、誰がそれを認めることが出来るだろうか。法律によるとそれが警察の責務だということは正論だが、それでは津波騒動の最初に彼らはどこにいたのだろうか。
本当の事を言って、そのような動きがあるのは、検死作業に集まったボランティアが教えてくれたことで最初から知っていた。大勢のボランティアから、プーケットにいた時私の仕事の手助けを禁じるような動きがあったと聞いた。警察の言によると、政府は私の仕事を認めていないというのだ。「それではなぜ各大臣が視察にくるのか?」と彼らはすぐに質問したらしい。それに対しての警察の答えは、「これはポンティップ博士の売名行為だ」いうものであった聞いた。このことを伝えた外国人は、身辺に気をつけるようにと警告してくれた。これだけではない。現場にやってきた外国人男性のグループが首相に語ったところによると、その件について緘口令をしかれたということだ。それを言った人物に直接問いただす機会があった。なぜなら外国人がその人物を指し示したからだ。彼は多分私がその件を知る機会があるとは考えてもいなかったであろう。

 このような策略を弄する理由の、理解の糸口がだんだん明らかになってきた。それは最後には大きな問題となって表面化した。突然、検死作業を国家警察庁に委ねもう一度やり直すという公式発表になった。その理由として挙げられたのは、今まで行った検死作業は国際基準に合致していないからというものだ。全ての当事者がこの発表に困惑している。他の法務医も同じだ。警察が基準に合致した検死が出来るのかどうか。それはさておいて一番の問題は、警察は今までどこに姿を隠していたのかということだ。どうして今になって藪から某に責任者であると姿をあらわすのだ。今回、全国から集まった法務医はすでに出来るだけのことをした。

 私は、今回の基準に関して圧力をかけられている人物だ。基準に沿った作業をするという点に関しては、異論はない。しかしその説明の仕方に憤慨しているというのも事実だ。その一つの理由は記者会見で我々を非難しておきながら、後日、単に正式な検死情報が必要、と話を締めくくるというやり方は間違っていると考えるからだ。

 第二に、従来の検査方法に満足していない人々は少数にしか過ぎないのに、なぜ外国人が、ということを前面に押し出す必要があるのか。タイ人は今まで何回も警察のやり方に失望したと意思表示してきた。今回のことは私自身が、タイ人に代わって悲しく思っている。

 3番目に検死基準という点についてだが、それは私自身が7年以上問題にしてきたことだ。しかしそれに反対してきた当局者が今回のニュースを報じた張本人である。今日になって態度を変えて、基準どおりにする必要があるという。今回の一件が納まってからも、他のケースにもそれが適用されるよう望むばかりだ。

 最後に、今、表舞台に出てきてDNA情報や身元不明者は警察の責任と宣言したことを、あのように巨大な警察組織全体に浸透させる必要があるだろう。現在一般に行われている検死の手順はまだ包括的なものではない。DNAは個人の秘密と捉えられている上に、無名の遺体は偽装殺人の犠牲者もあり、その関係者はピストルを所持しているような一味であることが多いので、その点でも作業に責任をとるのは難しいであろう。

 この津波災害の一件の最初から今日に至るまで、誰が責任者かずっと困惑している。まだしかるべき人物が誰も遺体安置所となっている寺に姿を現していないからだ。‘異臭’と幽霊を恐れているのだろうか。
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by karihaha | 2005-03-04 20:40 | スマトラ島沖大津波 | Comments(0)

Dr.ポンティップエッセー No.2

バッド ニュース(悪い知らせ) No.2

 寺は、敷地のいたるところに置かれた数え切れないほどの遺体と、親族を捜し求める人々で溢れかえっていた。ある人は突然の別れに遺体を見てなりふりかまわず泣き叫び、ある人は茫然自失という態であった。これは急いで仕事に取り掛からなければならない。

 遺体の大半はまだ腐乱もすすんでおらず、完全な状態のものが多かった。特に目を引いたのは、幼児や子どもの遺体が多いことだ。遺体を捜し出した両親は、なりふりかまわず泣いていた。彼らは泣きながら、「波が押し寄せるのを見たと同時に、子どもをしっかり抱きかかえたが、波に押し流される内に子どもが腕から離れて行ってしまった」と訴えた。ご遺族の気持ちを思うと、仕事をしながらも、同情の涙を禁じえなかった。反面、このような感情は私に仕事を推し進める力も与えてくれる。

 10体、さらに10体と限られた器材で次々と犠牲者の遺体を検死するのは耐えがたいものがあった。普段から検死作業に慣れてはいるが、今回の場合は特別であった。外国人の遺体を見るにつけ悲しみに襲われた。彼らはただ旅行に来て、予想もしなかったこのような惨事に遭った。それはこの地域の住民も同様で、何の警告もなく被害にあい、全てを破壊された。

 組織的な検死作業は不可能であった。遺体を捜しにくる親族の方々の存在があったからだ。親族が身内の遺体を見つけると、順番を通り越して、すぐに検死を希望した。この無秩序の混乱状態は、統制責任者の欠如に原因があった。すでに当該の高官に説明し状況を伝えたが、このような大惨事がもたらす混乱状態では、そこまで手が回らなかった。

 信じがたいことだが、津波発生後の最初の数日間に調達できた器材と言えば、私が仕事をする時にいつも持ち歩く私物しかなかった。仕事の召集があると、デジタルカメラ、一眼レフカメラ、ノート型のパソコンを携帯していた。しかしデジタルカメラの欠点は、バッテリーが切れると再充電する必要があり、仕事が中断されることだ。その間をフイルムカメラで補ったが、持ち合わせのフイルム3巻を使い終わっても、充電が終わっていなかったりした。資料を書いたり、写真を撮ったり、DNAサンプルを安全な場所に保管する、これら全ての作業をあまり経験のない部下とするので作業が滞りがちであった。遺体の写真を撮るのも自分でした。もし他人任せで撮った写真が不鮮明であることがあとで判明しても、もう一度取り直すというのは不可能だったからだ。

 私が持ち込んだ検死のための救急用具はバッグ一つ分だけであったため、それもすぐに底をついた。幸いなことに法務省が派遣した法的死刑執行の専門家と刑務所の責任者が到着したと同時に、食事や宿泊の手配、その他にも多くの点で整備されてきた。初日は遺体の前で食事をすることになったが、死体からの異臭と、集まった親族からの臭いが食欲を減退させた。

 食欲がないせいで一日ごとに体重が減り、その上、疲労が脱水症状を誘発し、最初の日は一度たりともトイレに行くことはなかった。その日も遅くに仕事を終えたが、その夜も何処に泊まるのかも決まっていなかった。現地の世話係が、やっとのことで警察の寮の一部屋を手配してくれた。そこの居住者が部屋を明け渡してくれたのだ。

 地震発生から数えて3日目、タクワパ郡の郡長と話す機会があった。そこで、ヤーンヤーイ寺に常駐する監督責任者が必要と訴えた。私の本業は検死作業に専念することだが、いまはそれと同時に器材の手配やその他もろもろの案件をこなす必要に迫られていた。電話に関しても私が普段使っているGSM(タイの携帯電話会社の一つ)が、その時点でも全く使用不可能であった。DTACであれば使えるが、手に入れるのは難しかった。その朝、テレビの5チャンネルのインタビューでそのことを訴えると、たまたま番組を見ていた
TT&T(タイ電話公社)の責任者が、すぐに寺に電話線を引いてくれた。この周到な対応には大いに感謝した。

 電話連絡が取れるようになり、中央の責任者に現場の数々の問題を伝えることが出来るようになった。そのおかげで、翌朝マニット スタポン氏が一団を引き連れて現場に到着した。しかし遺体の数に比して、人数が少なすぎた。郡も遺体安置所の監督責任者を派遣すると言ったにも関わらず、現在に至るまで実行されていない。

 ヤーンヤーウ寺の遺体安置所で一緒に働いた90%以上がボランティアであった。寺が正式な遺体安置所として体制が整ったのは、津波発生後何日も経過してからであった。そんなことも現場の人手不足の一因であろう。そんな中マヒドン大学の同級生であったポン医師に再会できたのは幸運なことであった。ポン医師はパンガー県環境衛生局のアソシエイト ディレクターで、災害現場の至るところを回ったあと寺にたどり着き、仕事を手伝ってくれた。ポン医師は私に負けず劣らずよく働く人物で、最後には、まるで現場の最高責任者のようになった。

 ポン医師以外には、津波発生後3.4日目に陸軍が兵隊を送ってきた。この一団の責任者は軍医であった。彼は医者ということで、最初は負傷者の手当てをしていたが、陸軍の派遣隊の長でもあるので、後には遺体収容作業の司令官になった。

 他の諸々の団体の責任者は遺体安置所の現場を目の当たりにし、心を痛め、長く留まる人もいたが、少しだけ来てすぐに帰る者もいた。しかし残った場合でも、遺体安置所から姿を消してしまう人が多かった。海辺の遺体収容作業に刈り出されてしまったからだ。

 運び込まれる遺体は膨張し、それをプラスチックで巻き、紐できつく縛っているので、移動したり、検死作業をしたりするのに多数の人手が必要であった。そういった意味で陸軍部隊の到着は時宜を得ていた。特に助かったのは、その部隊に二人の医者が含まれていたことだ。一人はプラモート イムワッタナー陸軍大佐で、産科の専門医。もう一人はワンロップ サアンスンソウエー陸軍中将、内科の専門医である。この二人の医者が次々と運び込まれる犠牲者の検死作業の責任を分担してくれた。災害発生後数日を経過しているにも関わらず、絶え間なく遺体が運び込まれてきた。新しい遺体を受け入れるために、急いで作業をする必要があった。

 検死が終わり、遺体を埋葬し始める頃になると、少し事態を振り返る余裕が出来た。そこで考えたのは「どうして、私たちがここに来てこのような作業の責任をとらなければいけないのか」ということだ。プラモート氏を始め、ワンロップ氏も私も一介の医者である。このような事態で全責任を取らなければならないような立場にはない。しかし、政府や県から誰も統括責任を取るような者が現れず、目の前の事態の収拾を図るため、否応なく難しい仕事をこなしてきた。

 遺体を運ぶためのトラックもなかった。そのため心ある人が個人所有のトラック6台を全期間中貸し出してくれた。トラックを無料で提供してくれたばかりではなく、ガソリン代も個人で出費してくれていた。そのことを知った私が、寄付で集まったお金でお支払いしようとしても、お金を引き出すための手続きのために、長い時間待たなければならなかった。

 今回の災害に関連する、あらゆる面で同じような障害がある。組織を全体像で捉え、統制できるような人物の不足がそれである。惨事が起こった当初から今日まで、まだこの問題を抱えている。一例をあげると、犬を始めとする家畜動物のコントロールをする人物の配備ということだけで、もう10日間も経過した。しかし今もって、遺体を傷つける犬を遠ざけることさえ出来ていない。
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by karihaha | 2005-03-04 20:39 | スマトラ島沖大津波 | Comments(0)

Dr.ポンティップエッセー No.1

 『スマトラ島沖大津波で犠牲となられた方々の検死作業に携わった、女性法医学者、ポンティップ博士の手記の一部を抜粋し翻訳しました。検死担当官の立場として描写された津波発生直後の混乱した現場の状況は、当時の様子を知る手がかりになると思います。原文は、タイ語版‘ネーション誌’658号及び、659号に掲載されています。余談になりますが、ポンティップ博士は、この仕事が一段落したあとは、政府の法務医としての地位からの辞意を表明されていると聞いております。噂では警察関係者との確執が原因とされていますが、個人的に注目している方だけに、残念な思いがしてなりません』。翻訳者


バッド ニュース(悪い知らせ) No.1

 毎年新年を迎える今頃は、バーン サムマコンの同じ通りに住む、仲の良いご近所の方々をお呼びしてパーティをすることにしている。12月26日、日曜日、向かいに住む友達がその夕刻パヤオに行く予定があり、それに間に合うよう、近所の子供たちをお昼ご飯に招待していた。

 午後2時過ぎごろ、お隣に住むプレーンちゃんの父親、オート氏が走って来て、プーケットで津波があり、相当の被害が出ている上、死者も大勢いるようだと言った。法医学者としてすぐに脳裏をかすめたのは、重大な状況が発生しているかもしれないということである。津波は地震のあとに起こる巨大な波で、一旦発生するとどこでも大きな被害を引き起こしていることを知っていたからだ。

 すぐに内務大臣と連絡を取り、内務省として、法務科学委員会にどのような支援体制を望んでいるのか尋ねた。大臣はすでにプーケットに駆けつける途中で、私もすぐチームを組んで急いで現場に駆けつけるように要請した。状況が全く分からない中、何から手をつければよいのかも分からなかった。津波の影響でプーケット空港が閉鎖されているのにどのように行けば良いのか?幸運なことに、今年、法務省の要請で、空軍防衛大学で学ぶ機会があった。そのとき知り合ったクラスメートは全員が軍の高官たちだったので、彼らを通じて軍機‘C130’が最初の救援機として、間もなくバンコックからプーケットへ飛び立つという情報を得た。急なことで間に合わないかもしれないが、いずれにしろ、ハッキリとしたスケジュールを調べて連絡する、と約束してくれた。

 慌しいなかで、チームメンバーを8人だけ集めることが出来た。その中には法医学者も2人含まれていた。全員がかろうじてプーケット行きのフライトに間に合った。乗り込んだ便はニュースを報道しようとするジャーナリストたちで一杯であった。皆が、プーケット着陸が可能なのかと不安感を覚えていた。プーケット空港の背部にまで津波が押し寄せたことにより、離陸時点では飛行場はまだ閉鎖中であったからだ。

 プーケット空港に着いた時の一番の問題は、プーケット市内間の電話網が壊滅状態で、市内間の連絡がつかなかったことだ。プーケット域外に電話するのもDTAC(数社ある携帯電話会社の一つ)だけが使用可能であった。そのためDTACを使い一旦バンコックかハチャイ(タイ南部の主要都市)に電話し、そちらの責任者から、プーケットの責任者に用件を伝えてもらう方法をとった。そのような方法で私たちの出迎えに来てくれた人とやっと連絡が取れた。その人物はコーカイ氏と名乗り、ハチャイの実業家ケーウ氏が急遽手配して呉れた友人である。偶然知り合ったケーウ氏には以前から何かとお世話になっており、つい最近もタイ南部のイスラム教徒の鎮圧で多数の死者が出た時にお会いしたばかりである。今回も、もしプーケットに、宿泊施設の手配等でお手伝いしくれるような知り合いがいれば紹介して欲しいとお願いしていた。出迎えてくれたコーカイ氏自身もプーケットで手広く商売をしている実業家である。

 プーケットに着くと、まず県庁を訪問した。そこで被害状況を知りたかったのと、何をする必要があるのかを把握したかったからである。その時初めて、津波に関連するもう一つの重大事件を知ることになった。皇室の第一王女のご長男、プム ジェンセン氏が行方不明で、総力を挙げて緊急に捜索をしている最中であるとのことであった。タクシン首相も総指揮を取るため、その夜プーケットに向かってくることになっていた。プーケットの被害状況の概略と同時に、パンガー県も被害が酷いという事を知った。しかしプーケット、パンガー間の電話網が壊滅状態のため、詳しい状況の把握は不可能であった。居合わせた軍総括司令官のポーチン氏が、パンガー県の救援のため、チームメンバーを2つに分けるように要請した。同県の被害状況が不確定であるということもあり、私自身がパンガー県へ出向くことにした。私以外には、部下が一人と、軍の世話係が一人同行することになった。持ち物といえば、私がいつも持ち歩く私物の仕事道具だけであった。

 コーカイ氏がドライバーとしての労を取ってくれた。最初の病院に着き目にした光景に心が痛んだ。外国人の負傷者が大勢いたからだ。建物内だけでは収容しきれず、芝生や、道路、さらに歩道にまで無秩序に横たっていた。そこで見かけた遺体は2体。一体は外国人、もう一体はタイ人の子どもであった。病院によると、ラムケン寺では、野外に置かれた検死待ちの遺体が何十体も安置されているということであった。

 仕事を始めたばかりであるが、募る不安感に押しつぶされそうになった。外国人旅行者の遺体は、衣類の一部が剥がれ落ち、全身に擦り傷がある。これは波に押し流された際に漂流物に強くこすったためであると推定できた。口や鼻の周りには出血の跡が残り、着衣には砂がびっしりとついていた。被害者は波に押し流され、海底にこすり付けられたか、海岸の砂地に強い力で打ち上げられたのだろう。遺体は苦痛に満ちた死を物語っていた。軍医の一人が救援活動に参加したが、彼自身の恐ろしい体験を淡々と語ってくれた。

 この軍医は、惨事の直前までゴルフをしていたが、たまたま海辺のホールにいたとき、海の水位が急速に下がるのに気がついた。水位の低下により、地表が現われ、腕の長さほどの魚がもがいているのも見えた。珍しい光景にしばらく興味をひかれていたその時、遠くから大きな波が押し寄せてくるのを見た。皆が、チリヂリになりながら、安全な場所を求めて全速力で逃げた。軍医の部下でキャディをしていた男は、逃げても間に合わないと分かると、ココナッツの木によじ登り、しっかりと摑まっていたため一命を取り留めたが、走って逃げた人々の多くは津波の犠牲となった。軍医自身の身体にもいたるところに擦過傷があり、このことは水に飛ばされた砂の勢いのすごさを物語っている。

 その夜は30体ほどの遺体を検死し、DNAサンプルを取り終えたのは午前3時を過ぎていた。関係機関に連絡するにも電話網が不通ではそれも叶わなかった。その夜の宿舎を捜す時間であったが、タクワパ郡は海沿いのリゾート地であるため、高級ホテルはすべて津波で押し流されていた。タイムアン郡にある、パカランリゾートに一度宿泊したことがあるが、このホテルも海沿いに建てられていたため、全て波にさらわれた。リゾートのオーナーによると、何一つ残らなかったということだ。タイムアン郡市内には泊まれるようなホテルが一軒もない。海沿いのバンガローがあるにはあったが、全て波にさらわれてしまっていた。幸いなことに、村の代表議員が宿泊施設を提供してくれた。このような場所で一夜を過ごすとは思っていなかったので、バスタオルの用意さえしていなかった私は、それを郡の警察署長にお借りしてしのいだ。

 翌朝、朝6時ごろには既に起床した。その日からの深刻な任務を考えるとあまり眠れなかった。コーカイ氏がハンドルを握り、タクワパを目指した。地元テレビ局、チャンネル5のリポーターも同乗した。彼の持っていたDTACの携帯電話のお陰で、県知事事務所と連絡が取れた。秘書を通じて、県知事の要請として、タクワパの病院に多くの遺体があるので寄るようにと聞かされた。しかしその病院に着くと関係者が、遺体は全てヤーンヤウ寺に安置されていると言ったので、そのまま寺に向かった。そこでは数え切れないほどの遺体が手付かずのまま安置されていた。

 私は、とにかく仕事を始めることにしたが、何から手をつければよいのか分からなかった。やることが多すぎた。その上、スタッフと言っても同行した2人しかいない。
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by karihaha | 2005-03-04 20:38 | スマトラ島沖大津波 | Comments(0)

スマトラ島沖大津波、ボランティア報告

『バンコックから北へ150kmほどのロップブリ県に、エイズホスピス‘プラバートナンプー寺’がある。そこで長年、医師としてボランティアをしていたベルギー人イブ ウエリーが、スマトラ島沖大津波の犠牲者の検死作業にボランティアとして携わった。ホスピスのボランティア仲間たち数人も彼に同行した。これはその報告書である』。


スマトラ沖大津波、ボランティアからの報告
 遺体安置所は、まるで冬の朝もやのように、ドライアイスからの白くて乾いた煙が一日中漂う空間である。最初はその塊を遺体の上に直接のせていたが、そのやり方では遺体を傷つけ、身元判明の手がかりになる刺青まで消してしまう(写真参照)と分かったとき、遺体の間に置く方法に変更された。そのあと当局者は遺体安置所を一つのゾーンがおよそ50体からなるスペースに分け、ゾーンの間に高さ60cmの壁を設けることにした(写真参照)。その仕切りの設置により2つの問題が改善できたが、あらたな問題も起こった。

 第1の改良点は、スーパーマーケットでよく見られる開口部のある冷凍食品保存庫と同じように、このゾーンに冷気を密閉することにより少しは遺体の腐敗の速度を遅らせることが出来ること。第2の点は、放し飼いの鶏が遺体の口や目、それに身体の傷から出てくる蛆虫を突ついて、餌食にするのを防ぐことが出来ることだ。一方この壁の短所はドライアイスから出る煙を封じ込め、作業に支障をきたすことである。煙はまた、思いがけない副産物ももたらした。ボランティアの数もまばらになる時間帯、特に夜間には、ダンテの「神曲」が描くところの地獄界の美とはかくあろうかと思えるような光景が出現した(写真参照)。

 我々はトラックで運ばれてくる遺体(写真参照)から、身元確認の手がかりとなるどのように些細な特徴でも見つけ出す作業を割り当てられたが、高気温のために溶け出したドライアイスが放つ大量の煙が作業の支障となり意気を削がれがちであった(写真参照)。苦肉の策として考えついたのは、チームの一人がドライアイスの煙を払う係に専念することだった。その係がダンボール箱の切れ端を使って遺体周辺の煙を払うあいだに、一人が参考写真を撮る。もう一人は遺体の着衣を記録し、ラベルを切り取り、ポケットの内部をチェックする。3人目は遺体のあらゆる特徴を調べる係だ。つまり、刺青、耳のピアスの穴、外科手術の跡、マニキュアの有無や爪の長さを観察し、記録する。さらに遺体の口の中に指を入れ、あごの状態や、抜歯の跡、入れ歯の有無を調べる係もいた。この担当者だけが悲惨な遺体をあまり直視する必要がないという点で、少しは得な役回りであったかもしれない。チームメンバーの内の一人は遺体には触れずに、他のメンバーが口述することを所定の用紙に記録する係りを担当した。さらに別のメンバーは遺体を洗う水を運び込んだり、小さな袋に髪の毛や切り取った洋服のラベル、ブレスレットやその他の装飾品などを詰めたりする役目を受け持った。

 幼い子供たちの身元確認用のサンプルには、穿いていたズボンなどを加えることした。もし子供の母親が生きていれば、間違いなく瞬時でそれを見分けることが出来ると考えたからだ。そうすることで遺体と直接対面したり、写真確認したりするよりは効率的で、なおかつ苦痛の少ない身元確認が出来ると考えたからだ。

 ときには犠牲者の性別さえ確定出来ないほど損傷の激しい遺体もあった。そのため、とにかく早く作業を進める必要があった。遺体は次々と運び込まれ、たとえ一時間の差であれ、どんどん鑑定が難しくなっていったからだ。あとから到着した遺体ほど着衣の黒ずみが増していき、毛髪の量が減り、腐敗の度も酷くなっていった。推定年齢の割り出しは殆ど賭けに等しかった。中でもとりわけ骨の折れる仕事は、人種を特定することであった。アジア人なのか、ヨーロッパ人なのか。もし、ブロンドの髪の毛がいくらかでも残っていればそれほど困難ではない。頭髪と陰毛を較べるだけで人種の特定が出来るからだ。しかしその他の遺体の場合はどう特定すればよいのか?ヨーロッパ人に較べるとアジア人の頬骨はいくぶん高い目である。陰毛は少なめで長く、それほど縮れていない。骨格はどちらかというと華奢で、肥満体型はまれである。着衣や刺青によっては宗教色を出していたり、文化の違いを知る手がかりになる物もあった。しかし率直に言って、間違いが起こるのは避けようがなかった。

 この‘人種’という点が到着したばかりの、ヨーロッパ人からなる遺体検死専門チームにとりただ一つの関心事のように見受けられた。彼らの中には尊大さを露にする者もいた。一例を挙げると、アジア人の遺体に接するとき、明らかに軽蔑的態度をとる者もいたことは、私自身がヨーロッパ人であることを恥じたくなるような経験であった。彼ら‘専門家’たちの評判をさらに悪くしたことは、運ばれてきた遺体を包む袋を開け、検死するという一番骨の折れる最初の作業にめったに手を貸さなかったことだ。我々がすでに検査を終えた遺体のうち、白人の可能性があると推定した遺体だけに興味を示し、その遺体を自分たちが勝手に設けた‘西洋人犠牲者専用スペース’に運び込んで分析後、確定したものだけを保冷コンテナーに安置した。混乱を極めた現場の状況では、我々の検死結果も信憑性に欠けるのは免れなかったにも関わらず、公表された遺体の写真や特徴を見て、身内の一人かも知れないと、コンテナー内の遺体の確認を希望するタイ人の親族がいても、このファラング(タイ語で西洋人という意味)たちは親族が保冷庫に近づくことさえ許さなかった。

 一連の作業のうち、とりわけ耐えがたかったのは、トラックで運び込まれたプラスチックに包まれた遺体を取り出す最初の作業だった。異臭の酷さは筆舌に尽くしがたく、臭いを分散させるために作業を一時中断し、開いた包みを数秒間放置することもしばしばであった。異臭と同じくらい胸を悪くさせるものに、遺体に取り付く蛆虫がある。しかしこの忌まわしい生き物は、空気や光に触れると遺体の内部に戻る習性があるので、袋を開けてから数分後には心理的にいくらか楽になった。経験を重ねるごとに少しずつ知恵がつき、検査をする前にまず、10体ずつ袋を開けておく方法をとるようした。

 我々が割り当てられた任務は、この大惨事がもたらした様々な作業の中で、特に不快なものではなかったかもしれない。もっと大変なのは残骸やぬかるみ、あるいは淀んだ水の中から遺体を収容することであろう。しかしこの作業と我々のそれを較べたときに、前者のただ一つの利点と言えば言えるかもしれないのは、一日に扱う遺体の数が我々より少ないことだ。そうは言っても実際には、我々が絶対的に不利な作業に就いているとは言い切れない要因もある。並列に置かれた何百体もの遺体と対峙するような状況に身を置くと、脳は特別の指令をだし、遺体の人間性と心理的に距離を取ろうとする作用があるからだ。その証拠に遺体の検死作業をするボランティアの中から、誰一人として嫌悪感から仕事場を離れたり、吐き気を催したりするような者は出なかった。それどころか、ボランティアたちがもっと過激な任務を選ぶ傾向があるのを見た。その任務とはDNAサンプルの採取だ。検死とはまた違った遺体との接し方をするその作業、大腿骨の四頭筋に小型ナイフをふるい、肉片を採取してサンプルの袋に入れれば、もう次の遺体へ移る。遺体を取り出し異臭にさらされることもない。のちに腐敗がすすんで筋肉が使えなくなってからは剪定はさみを使ってわき腹の肋骨を切り取った。そのやり方のほうが簡単であった。

 一人の赤ん坊の検死が終わった。その後のDNAサンプルの採取と歯科医チームによる補完的な歯型検査が終わると、新しいプラスチックで包み、一列100体ほどの遺体の列に加えられた(写真参照)。それら遺体は、ほどなく火葬に附される。これがアジア人の遺体の通常の取り扱い方法だ。我々はこの赤ん坊を一方的にアジア人と見做し処理を進めたが、それは西洋人の専門家の到着が遅すぎたのと、彼らが現場で手を貸さなかったのが原因でもある。

 一人のボランティアが並べられた遺体の列の間にドライアイスを置こうとしていた時、誤ってその赤ん坊の身体の上に塊を落としてしまった。その時小さな包みの中から数秒間うめき声にも似た音が聞こえた。恐怖!パニック!皆が一瞬凍りついた。ドライアイスを落したタイ人ボランティアは何度も「ごめんなさい」といいながらプラスチックの袋の中の赤ん坊にワイ(両手を前で合わせるポーズ。挨拶や、許しを乞う時のジェスチャー)をし、バッグを開けようとしたので、「その現象は体内にガスがたまっていたのがドライアイスの衝撃で体外に出る際、声帯を刺激して起こる珍しくもないことなので、袋を開けてみる必要はない」と私が説明し、やっと騒ぎは収まった。この小さな事件が起こったのはもう夜も更けた時間帯であったが、前夜の騒ぎにも関わらず、翌日には全員が再び作業に集結し、くだんの一件を冗談まじりに話すまでになっていた。

 我々の脳裏に深く刻みこまれ、一生記憶に残るであろう逸話は他にもある。しかしそれは悲劇的なものばかりとは限らない。任務の特殊性から特別な緊張を強いられた我々の神経は、説明のつかない精神作用を起こすこともあった。

 非常に体格の良い遺体を検死していたときにそれは起こった。我々がヨーロッパ人と見做したその遺体は、いわゆる脳みそは小さいが、力は強いというあの手のタイプの男のように見受けられた。裸の上半身をひけらかせて街をねり歩き、若くて可愛い女の子を引っかける、歓楽街によくいるそんな男の一人のように映った。彼の着衣を脱がせる前に、汚れを払い落としていたその時、着ていたT-シャツのカラフルな胸のロゴが目に飛び込んだ。それを見た、居あわせた者全員が突然笑いにとらわれた。そのような場所で、全く気が狂ったとしか思えないような不謹慎な行為。しかしその笑いをどうしても止められなかった。そのT-シャツには、よくあるブロークンイングリッシュで、大きく‘涅槃はここにあり’、その下に小さく、‘13日の金曜日’と書かれていた。

 我々が任務を通して抱えるリスクはなにか?医者の立場として「バクテリアは大して危険ではない」と言える。遺体の腐敗の大半は、空気感染をしない菌が原因で、正常な血液循環をしている身体には感染しないからだ。肺炎菌や結核菌が蔓延する病棟に身を置く方が、危険にさらされる度合いが高い。

 任務の本当のリスクは心理面にある。人間の脳の働き、すなわち途方もない数の死に直面した時には、それがスイッチ(切り替わる)する能力についてはすでに言及した。その作用は悪い方向に向きがちである。ボランティアが一番恐れなければならないのは、悲劇の証人になる苦痛ではなく、死者に対しなんら敬意を払わなくなるような狂気だ。

 我々のチームメンバーの一人の若い女性が、私の肘を突付いて、「あんなタイプの男が私の人生に関わりを持つのは絶対いやだわ」と言ったとき、現場ですでにその現象が起こっているのに気がついた。彼女は作業中の白人DNA鑑定専門医を指して言ったのだが、その医者は丁度その時、まるで焼きすぎたチキンの骨を抜くかのように幼い少年の大腿骨を引き抜いている最中だった。次に、抜き終わったそれを手に取ると、なたを振り下ろし骨の砕片を四方に撒き散らしながら、使用可能なサンプルを抽出する作業に取り掛かった。彼のやり方は、見方によってはヒステリー患者か肉屋、あるいは戦争によって誘発される狂気に満ちた行為そのもののように映った。

 もう一つのリスクは、任務を離れてからも場合によっては長い間苦しめられる悪夢かもしれない。この点に関しては、我々のチームメンバーは免疫があると言ってもいいかもしれない。我々はこの国のロップブリ県にあるエイズホスピスでボランティアとして数年間一緒に働いた仲間で、そこで1日あたり、一人か二人の患者の最期を看取った。丁度数週間前にホスピス幹部との意見の行き違いが原因で、全員がそこを去ったばかりであった。このホスピスでの経験を通して私が確信を持ったのは、生前の美醜はおろか、すべてが未知の人たちの死の証人になるより、名前やその声の響き、あるいは個々の苦しみを知っている人たちの最期を看取る方がよほどつらいということだ。

 カオラックの‘死の基地’の雰囲気は和やかに終始したといえるだろう。ボランティアが沈み込んだりすることもなく、笑みが絶えなかった。ここでタイ人ボランティアに敬意を表したい。彼らは何日間も作業に携わったが、遺体に触れるときは終始、まずワイをし「失礼します」と言うのを欠かさなかった。これは犠牲になられた方々への深い敬意と哀悼の意の表れだ。また彼らタイ人誰一人として、人種による遺体への差別をしなかった。

 現場で陣頭指揮に立ったのは、タイでは知らぬ人のないポンティップ博士である。女史は過去にも、世間を騒がせた数々の事件の審理で活躍した人物だが、外見的には独特のスタイルのこの博士、任務を完璧に把握しているという点では奇跡とも思える働きをした。現場のいたるところに現れ、常に笑みを浮かべながら矢のような質問に答え、タイ語は話せないが何かしたいと駆けつけた外国人たちを指導した。そして一旦指示を出せばそれに従うように仕向けた。検死作業に伴う山のような案件は非常に困難で緊急を要し、その上予測不可能であった。限られたスペースの割り振り、遺体の配置、惨事の記憶も生々しいタイ人からなるスタッフの体系的な組織、ボランティアの善意に穏やかに全幅の信頼を置くやり方、我々ボランティアに次々と送られてくる何トンもの寄付の処理等々、到着したばかりの西洋人が理解できるわけもないそれら案件を、博士は特筆に価する働きで処理し、その機能を維持するのに成功していた。このような大惨事をタイは長い歴史上はじめて経験したこともあり、設備や情報が極めて不足している状況にも関わらず、ヨーロッパ人には決して達成出来ないような素晴らしい仕事振りを発揮した。これは現場の証人として自信を持って言える。

 我々ロップブリチームは地震発生後2日目に現場に駆けつけた。ちなみにロップブリから災害地までは1,000kmある。我々全員が特にどこかの団体に所属しているわけではないが、プーケットまでの飛行機代は無料の上、切符を30分以内に手に入れることが出来た。現場は極度の混乱で何ら対策が打たれていないと思っていた。これは他の西洋人も同じ思いであったろう。到着するとまず空港で、医者と通訳として深夜遅くまで手伝った。そこでは次々と到着する無数の負傷者がバンコックへ搬送されるのを手助けした。殆どすべての負傷者にすでに基本的な救急処置がほどこされており、患者達はレントゲン写真や診断書を携えていた。傷の感染症がすでに始まっており、さらに強力な抗生物質を投与する必要があった。翌日(地震発生3日後)プーケットとカオラックの病院に出向くと、すでに全てがコントロール下にあった。そこにはタイ全土から駆けつけた優秀な医者達が配備され、我々の申し出に対し、恐らく他の場所の方が手伝えることがあるのでは、と丁重に説明した。再び空港に取って返すと、そこもすでに空軍の指揮下にあり、我々が手をだす幕ではないと分かった。

 新年を自宅で過ごすための無料の飛行機の切符まで手に入り、この周到さ加減にはチームのメンバー全員が感服させられた。今後も何か出来ることがあればと、全員の名前を置いてきたところ、新年に入ってから、カオラックに戻るようにと要請があった。遺体の検死作業のための召集だが、そのための手段、つまり無料の航空券、宿泊施設、食事、保護服、作業後の着替え(作業が終わると、臭いを取るためすぐ着替える)等、今回もすべてが事前にアレンジされており、希望者にはマッサージの用意までされていた。なかにはこの混乱のなかでの組織力の欠如をあげつらう白人もいたが、彼らは、今回のような災害につきものの混乱状態を統制不足としか捉えられないのだろう。自国のやりかたに固執する人々に、タイのような国で行われている意思決定の方法や、その背景、あるいはシステムの全体像などの点で簡単に誤解が生じるのは避けがたいことかもしれない。

 c0071527_14594674.jpg最後に、タイ人の皆様が私の同胞、ヨーロッパ人犠牲者に対し丁寧かつ専門的な対応をしていただいたことを、お礼申し上げます。この未曾有の悲劇にも関わらずあなたたちは人間性を保ち続けてくれました。非常に人間的でした。そのことにあらためて敬意を表したいと思います。
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by karihaha | 2005-03-04 20:36 | スマトラ島沖大津波 | Comments(1)