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ビルマ

いまから書くことはなぜわたしがミャンマーと呼ばないか、ラングーンはラングーンであってヤンゴンではないかという理由を述べるのには、うろ覚え、勘違いの記述でしかないかもしれません。。。


ビルマ

『1962年から1988年まで26年間政権を握っていた、独裁的軍事政権の首長ネ・ウインは国内での不満分子の抑圧にやっきだった。同じ年に起こった学生によるそれまででは最大の反政府運動をきっかけに退任。ちなみにアウンサンスーチーさんのお父さんのアウンサンとネ・ウインはビルマをイギリスからの独立へと導いた同士だった。

1989年 ネ・ウインの元部下がクーデターで暫定政権を樹立、そのさい近々民主的選挙で国民の信を問うと言った。

同じ時期に暫定政権は国名を『ビルマ』から『ミャンマー』に改名。同様に主要な都市名をことごとく変えた。その一例、『ラングーン』が『ヤンゴン』になった。

アウンサンスーチーさんはその数年前、病気の母親の看病でイギリスに夫と息子二人を残し帰国していたが、近未来の民主的選挙の実施を聞き、党派を構え立候補を表明した。

1989年、劣勢を予測した暫定政権はアウンサンスーチーさんを自宅軟禁にした。

1990年、党首が自宅に囚われているまま‘約束どおり’総選挙が実施された。

結果はアウンサンスーチーさんが率いる党が8割を超える得票率という圧勝だったにも関わらず、軍部は政権移譲を拒否したままいまに至る』

ご存知のようにアウンサンスーチーさんはいまも囚われの身のまま。彼女が率いる党の幹部の大半が刑務所に。軍部の手をのがれた少数のシンパは地下にもぐらねばならなくなった。

スーチーさんの夫は妻に会えるようにと何度もビザを申請していたが、ことごとく拒否された。一方夫が甲状腺がんで死の淵にあったとき、「イギリスに帰るように」という軍部の勧めにも、スーチーさんは応えなかった。いったん出国したら二度とビルマに入国できないという確信からだった。


わたしの部屋のテレビでフランスのTV5が入るというのについ2・3日前に気がついた。

長井さんの悲劇を報じるニュースを偶然みてフランスではいまも『ビルマ』の呼称を使っているのを知って「さすが」と思った。


フランス人は『デモクラシー』を大事にする、だから日常茶飯事のデモや、非常に迷惑な公共機関の全面ストなども、大衆はガタガタいわずに応援の姿勢にまわる。

『個人主義とは他者の主義も尊重してこそ成り立つ』

そのことをフランスでの日々で身をもって痛感した。


フランスを始めとする数カ国の国々は、わたしと同じように『あの国』はいまもビルマでしかない。
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by karihaha | 2007-09-30 22:38 | ブログ | Comments(0)

あの国

ビルマに入ったのは、確か2000年8月。

当時いっぱしの仏教徒を気取っていたわたしの、2年数ヶ月に及ぶ仏教にゆかりのある聖地を訪ねる旅の1年目も終わりに近づいたころでした。

空路到着したラングーンは、「まだ世界にこんな桃源郷があったんだ」という第一印象を与えてくれた。その第一の理由は人々の所作。それに加えてイギリス統治時代の名残を残した建物の数々、上座部仏教を信じる信仰深い人々の礼拝の姿。

でも、数日滞在するうちに危惧していたことを体験することになった。


ビルマビザを申請したバングラデシュの首都、ダッカの大使館。受付けてくれたまだ若い大使館員はフレンドリーだった。そんな場所でビザを申請する一人旅の年配女性に興味をひかれたのかもしれない。

「わたしの彼女は九州に住む日本人女性です。研修旅行で行った時に知り合いました。日本駐在を希望したんですけど、結局こんな場所に配属されてしまいました」

『外交官』、すなわち。。。 という概念をあの国では捨てなければいけない。1988年の学生主導の反政府運動を最後に、すべての大学が閉鎖された。それ以降は高等教育の機会を与えられないままに子どもたちが育っていった。

くだんの『外交官』は殆ど100%政府の要人の係累だろう。教育機会を全く持たなかった外交官。。。

ビザが発給されるというその翌日、指定の時間に出向いた。すると前日に受け付けてくれたあの青年が「別室へ」と言った。結局それは『脅し』だった。

青年の上司が現れ、「あなたがビルマ仏教を知りたいということを私達はとても良いことだと思っています。だから、ホラ、この通りビザを発給しました。でもね、注意しておきたいことがあるんですけど、行動には気をつけてください。ほんの6ヶ月前、終身刑だったイギリス人の若い女性が外交交渉で釈放されたんですよね。彼女は街中で電信柱の支柱に鎖で足をくくりつけ、「わたしを自由にして♪」と歌っているところを逮捕されたんです。分かりますね」


そしてビルマ。

完全な言論統制。まともな本はアングラの本屋でコピー本でしか手に入らない。

史跡でビルマ人と歩いていた。そのビルマ人はおびえていた。基本的に外国人とビルマ人が接触するのは制限がある。その勇気あるビルマ人は「この現実を世界に伝えてください」と言いながらわたしのそばを離れた。

コミックに見せかけて暗に政府批判をしていた劇団があった。座長の兄弟はすでに囚われの身だった。でも続けている。夜8時からの開演になると停電になるという迫害にあいながら。

ラングーンを離れると情勢の緊迫感は遠ざかった、ラングーンでの緊張感も癒されたある日、泊ったゲストハウスを手伝っている女性に、「どう思う、いまの政府?」と聞いたことがあった。二人っきりだったそのときは。でも彼女はまるでピストルを突きつけられたように、ビクッとし、回りを見回し、沈黙を守った。


長井さんの悲劇は氷山の一角。でもあのビデオが目を伏せていた現実を世界に容認させてくれると信じている。

恐らく命がけであの貴重なビデオを持ちだしてくれた人に感謝。


わたしは7年前に過ごした2ヶ月間の日々以来、あの国を一度たりとも「ミャンマー」とは呼んでいません。そして首都ヤンゴンはわたしにとってはラングーンです。

合掌
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by karihaha | 2007-09-28 21:43 | Comments(0)